待つということ―体育祭の光景―

教育って子どもを信じることからはじまります。子どもたちの可能性を開くためには、子どもたちを信じて待ってみればいいと思うのです。待つことって、「動」ではなく「静」なので、とても我慢がいることです。

科学技術の進歩によって、私たちは「待つ」ということがとても不得手になってしまいました。学生の頃のデートの待ち合わせは、相手が何らかの事情で遅れたとしても、携帯でのやり取りができないので待つしかない。でも、あの時イライラしていた記憶がほとんどないのです。「何かあったのかな」「大丈夫かなあ」と、待たされている自分よりも、相手のことを気遣っていました。しかし、今は遅れたとしてもメールでやり取りができるので、そもそも待つことの機微を経験することが少なくなってきている。

子育ても同じです。育てる子どもの数が少なくなって、子どもの未来に対する親の期待は過剰になります。しかも、親の経験や価値観を子どもに当てはめようとしても、そのベクトルは子どもの未来図に通用しないことがほとんどです。親のイメージから子どもが離れていくと、親はあせり、さらに子を待てなくなってしまう。

待つことはとてもしんどいことですが、親と教師は待たなくてはなりません。待つために大人がとりあえずできることは、子どもの言葉に耳を傾けることだと思うのです。

校長室に無為に入ってくる生徒がいます。何を求めてきたのかもよくわからない。何とも不自然な時間が過ぎるのですが、それでも私からは口を開きません。沈黙の時間が長く続くと、さすがに私も苦しくなるので、「何か話したいことがあるの」って。生徒は「今は何も話したくありません」。そりゃそうだな。だから沈黙。でもそれでいいのです。そのうちにポツリポツリ語りだしますから。

自分が主導せずに、相手が自分を開くまで待っていれば、その時間はとても大切なものに変わってきます。そのうちに「言葉」が生まれてくる。社会に出た時に最も必要とされることは何かと問われれば、私は「言葉」だと答えるだろうと思います。人は「言葉」を発する前に必ず心を持っていて、その心に合った言葉を発することで行動に移していきます。「言葉」のないところに芽は出ないし、花が咲くことはありません。

6月6日の本校の体育祭は、教員がマイクを握ることは一度もなく、言葉を発することはありませんでした。会場は、生徒たちの言葉であふれていた。以下の文章は、体育祭を参観された保護者の方の言葉です。

「先生の姿はある。でも、声は聞こえない。聞こえてくるのは、生徒の声だけ。入学式同様、体育祭も先生が進行することは一切なく、開会式から閉会式。なんならその後の注意事項まで全て生徒主導だった。先生が生徒を信じて任せるスタイル。でも、決して見放すのではなくサポートは全力でしてくださる。だから生徒たちは安心して行動できるのだと思う。息子の学校を見ていると子育てのヒントになることがたくさんある。学校のあり方と同じように、親として見守ることができたなら子どももきっと主体的になるんだろうなあ」